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うたかた。

小説散文ときどき日記

カンシュ

三題噺

 ふと気づくと、私は見知らぬ場所にぽつんと立っていた。目の前に立つ鳥居は不気味なほど真っ白い色をしている。敷石も白い。空も白い。これは夢だろうか。

 

……私は、一体何をしていたんだっけ。

 

 泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。

 

……でも、どうして、泣いていたんだっけ?

 

 思い出せないのに、ただただどうしようもなく悲しいのはどうしてなのだろう。ぼんやりと霞みがかった思考で、けれどはらはらと涙が勝手にこぼれ落ちてくる。

 

……かなしい。くるしい。さみしい。つらい。

 

 あとからあとから、溢れては雫となって伝っていく。楽になりたい。でも方法がわからない。泣き止みたくても、私はどうして泣いているのかわからないのだから。

 

「こちらへどうぞ」

 

 声に驚いて顔を上げれば、いつの間にか鳥居の向こう側に巫女の格好をした女の人が立っていた。瞬きをすると、またひとつふたつと落ちていった。

 

 抑揚のない声と同じように、その美しい顔にはなんの感情も見えない。彼女は鳥居の奥を示し、そのまま踵を返して行ってしまう。何かを考えることもできず、私はつられるようにしてその真っ白い鳥居をくぐった。視界はずっと涙でぼやけていたから、前を歩く黒髪が目印だった。 


「どうぞ」

 

 巫女さんの進む方向には、やはり神社のような建物があった。どこもかしこも白く見えるけれど、よくわからなかった。見えないのか、見て考えることができないのか。それはきっとどちらでも同じだろう。


 通された一室で正面に座る巫女さんが、私に向けて、そっとその両手に持った何かを差し出した。赤い椀に、白いどろどろとした液体が入っている。私はそれを甘酒だと思った。思い出があるから。でもなんの思い出だろう。なんでそう思ったのだろう。

 

「これを飲めば、涙の原因をこのまま永遠に忘れられます」

「……私には、必要ありません」

 

 胸がつぶれそうで、やぶけそうで、いたくて、いたくて、いっそのこと死んでしまいたくて。なかったことにしたくて。どれだけ泣いても、気分は晴れなくて。それでも、きっと必要だったことだから私は今この地獄を味わっている。そんな、気がする。

 

「即答したのは、あなたがはじめてです」

 

 視線を上げると、その巫女さんがやわらかく目元を和ませて微笑んでいたのが、見えた。表情があるだけで、この世のものとは思えないほどの美人だ。彼女はおもむろにその器をとると、自ら酒を飲み干した。

 

「目が覚めたら、すぐに駆けつけてあげてください。ここにいた間だけ、時間が戻ります。……ただ、困りました。」

 

 相変わらず感情のない声が、淡々と告げた。洗い流したように、もう彼女の顔には何も感情が映っていなかった。

 

「うっかりあなたがいつ、ここに来たのかを忘れてしまいました。申し訳ありません。こちらとあちらの時間は流れる速さも違いますので、多めに戻しておきます」

 

 

 


 がばりと跳ね起きた私は、そこが病室であることを確認して慌てて時計を見た。0時を指していた時計が、ゆっくりと逆流するのを、みた。

 

「健司!!」

 

 ベッドに駆け寄る。まだ、息がある。思い出したようにまた次から次に滝のように涙がこぼれ落ちた。


 恋人の健司は長い病を患っていた。最期は私の顔を見ながら逝きたいと言っていた。もう残された時間が少ないのはわかっていた。

なのに私は、その死の間際に、立ち会えなかった。彼の望みを聞いてやれなかった。…居眠りをしていたせいで。日付が変わる直前、心停止のアラームで飛び起きて、健司はそのまま帰らぬ人となる。……はずだった。

 

時計を見上げた。今は23時48分。信じられなくて、すぐに健司を振り返る。まだ心臓は止まっていない。健司のご両親は今は休んでもらっていて、今ここには私しかいない。呼んでいる暇はない。もう彼は逝ってしまう。

 

「健司、健司愛してる。結婚しよう」

 

 伝えられればいい。それだけの時間があればいい。全部背負うと決めた。それが彼との約束だった。

 

「隠してあった指輪、勝手に付けるからね。止めても無駄だからね。」

 

 あとからあとから流れ落ちる涙を、もう止めるつもりはなかった。苦しくていい。悲しくていい。私が健司の分までかなしんで、くるしんで、さみしがって、泣いて泣いて、生きて、だからこの涙は、ずっと流れたままでいい。

 

「先に行って待ってて。きっと会える時には100歳のしわくちゃのおばあちゃんになってるけど笑わないでね。あっちで式を挙げよう。……甘酒でね」

 

 昔、お酒を一滴ですら飲めない彼が笑ったのだ。私と式が挙げられないと。だから私は酒という名がついていればいい、いっそ甘酒で挙げようと答えて、二人で笑って約束した。

 

「おやすみ健司。」

 

彼の最期を看取るという彼との約束を、そうして私はやり遂げた。さんざん泣き腫らしている私とは裏腹に、健司は幸せそうな笑みを浮かべていた。

 

 

 

(妖怪三題噺様より「甘酒」「時計」「美人」https://twitter.com/3dai_yokai

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