うたかた。

小説散文ときどき日記

夕陽の色

 あしやくん。図書室でいつも会う隣のクラスの不思議な男の子。
 こんなにきれいな男の人を、私は彼以外に見た事がない。
 男の人にきれいといってはいけないのかもしれないけれど、どんな男の子よりも女の子よりも、美しい人だと私は思う。
 先生と文芸部はこの時間、外へ俳句を詠みに行っていて、図書委員の私と本の虫の彼以外誰もいない。
 二人っきりの図書室はまるで学校ではない別の世界に迷い込んだみたいだ。だんだんと傾いていく陽射しが余計にそう思わせてくれた。

 芦谷くんは窓際の背の低い本棚の上に腰かけて、本を読む姿がとても様になっていた。
 コンクリートの柱が冷たくて気持ちいいのだそうで、いつも背凭れにしている。
 本棚の上に投げ出された足でさえ長くて、私はその姿を読書の邪魔にならないように少し離れた所で盗み見る。
 明るい西日の差すその姿はきれいすぎて、まるで本の世界から飛び出した存在みたいだった。

「芳野ちゃん」

 ふと私に気付いて顔を上げた彼が、笑顔でおいでおいでと手招いてくれる。沁みるように静かで、けれど確かな存在感の声に誘われて、私は彼の傍に吸い寄せられるように来てしまっていた。

「今日は絵本を読んでるの?」
「長編ばかり読んで疲れたから、たまに眺めるんだ」
「本当だ、綺麗」

 そういって緑の中にひとつだけ存在感を放つ、青い蝶のイラストを私に開いて見せてくれる。
 すらりとした綺麗な、けれど男の人らしい腕に私はいけないと思いながらどぎまぎしてしまう。

「どんな話?」
「森で道に迷った蝶がいろんな生き物と出会うんだ。帰り道を探してるうちに、自分の本当の姿に気付く。」

 蜘蛛に捕まって食べられそうになったり、食虫植物の中に落ちそうになったり、水を飲もうと近付いた川で溺れそうになりながら、蝶は森の奥へ進んでいく。色鮮やかな森の緑や、虫や動物たちの色彩が綺麗だった。緑は目にいいと言うから、疲れた目にいいのかもしれないけれど、本の疲れを本で癒すのはとても彼らしい。

「芳野ちゃんはきれいな目をしているね」

 ふとごく近くで囁かれた言葉に驚いて心臓が跳ね上がった。彼の支える本のページをめくるのに夢中で知らずにとても近くに寄ってしまっていたらしい。芦谷君の目の方がとても綺麗だと思う。色素が薄くて、少し灰色がかった茶色い瞳。

「それで、蝶はどうなったの?」

 どんどんと胸を叩くようにして脈打つ心音が煩い。まぎらわそうとした言葉は空振りだった。
 一歩下がろうとしたら芦谷君の腕に遮られてしまって軽くパニックになってしまったのだ。

 あの、きれいな腕が、なんと私の腕にそっとふれて掴んでいる。手もきれいだ。男の人らしい大きい手。指が長くて、四角い爪の色まできれい。

 ずっと冷房の効いた部屋にいたせいか彼の手はひんやりと冷たい。私の方はというと体温が3度は上がった気がする。

「妖精だったんだ。蝶のふりをしていただけなのに、それを忘れてしまっていた。…ねぇ芳野ちゃん」
「、っ…はい」

 芦谷君距離が近いです。近すぎます。呼吸が上手くできません。手が震えて心臓が痛くて死にそうです。するりと腰を引き寄せる腕は思いのほか力強くて、やっぱり男の子なんだなと感心する。

「お願い、逃げないで」

 あんまり切なそうに言うので、心臓がぎゅううと締め付けられるような気がした。私の心臓、忙しすぎて、きっと3日分ぐらい働いてしまったに違いない。苦しくて目を閉じるのと同時に、こめかみにやわらかな感触が触れた。
 いつの間にか二人の手を離れた絵本がどさりと音を立てて床に落ちる。

……一体これはなんだろう。

 はぁ、と熱いため息が額にかかってぞくりと震えた。
 触れるほど近い距離の身体からいい匂いがする。いや触れるほどというより触れていたというより何よりいつの間にかゼロ距離だった。私は汗臭くないだろうかとそればかりが気がかりで仕方ない。

「お願い芳野ちゃん。俺と付き合って」

 人間ってびっくりしすぎると、本当に頭が真っ白になってしまうみたいだ。芦谷くんのしなやかな腕にぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、びっくりびっくりの連続で、ただはい、と返事をするので精一杯だった。

(2015/05/26)