うたかた。

小説散文ときどき日記

合わないレンズ

「私、結婚するんです」

 

 最近度の合わなくなった上に、レンズが汚れ曇ってきた眼鏡がずり落ちた。頭の中がからっぽになってしまい、放たれた言葉がその空洞に虚しく響く。目の前の彼女を恋人だと思っていたのは、僕だけだったのだろうか。だとしたらなんて滑稽なんだ。

 

「なので、私と別れてください。ごめんなさい!」

 

 ああ、付き合っていたという認識は間違いないということでいいのだろうか。そのまま泣きじゃくる彼女に、からっぽの頭はさらにしゅるしゅると縮んでいくように思えた。喫茶店の真ん中の席、多くの人目がある中で、僕たちは酷く目立ってしまっていた。その人らの視線は泣いている彼女より、僕の方へと集中している。隣の女子高生らしき二人に至っては「泣かせた」「泣かせた」と囁きあって笑う始末。他の人たちも「女をこんな所で泣かせるなんて」と目が言っている。でもそんなこと言われましても。勝手に泣き出したのは彼女だと思ってしまう僕が狭量なのか。

 

「わかりましたから、落ち着いてください」

「ありがとうございます!ありがとうございます……!!」

 

 今度は立ち上がってぺこぺこ頭をさげる彼女に今度こそ僕は途方に暮れてしまう。わかれましたと言った直後にこの反応とは。一体僕という存在は彼女にとってなんだったのか。

 とりあえず、ズレた眼鏡を直して視界を戻す。曇っているのも、度があっていないのもしかたない。そうだ、仕方がない。自分で自分をそう宥めた。違う、今宥めるべきなのは彼女の方だった。

 

 なんとか泣き止んだ彼女がそのままぺこぺこしながら去っていくのを見送って、僕はようやくぐったりと息を吐いた。ふと隣の席に置いた鞄が目に入る。その鞄からリボンがはみ出していた。

 作ってほしいとねだられ、彼女の誕生日に贈るため、連日夜更かしをしてようやく完成した切り絵。僕の趣味であるそれは、彼女のためにかつてない精密さと繊細さで作り上げた自信作だった。それを包装し、かけたリボンだった。渡し損ねてしまったが、きっと最初から必要なかっただろう。そのなにもかもが滑稽に見え、僕は帰路、その切り絵を駅のゴミ箱へと置き去りにして帰った。

 最高傑作を手放すという潔さは、その時の僕にとってとても清々しく、あらゆる何かを癒してくれた。先ずは眼鏡を作り直しに行こう。そうしてまた、新しい切り絵を、あの作品を超えるそれを作ってみよう。

 

 

 

 

 

(妖怪三題噺様より「眼鏡」「リボン」「切り絵」https://twitter.com/3dai_yokai