うたかた。

小説散文ときどき日記

欠け落ちた魂

「お前さん!お前さんったら!」

 騒がしい声で叩き起こされて、俺は重たい瞼を上げた。知らない顔がふたつ、俺を覗き込んでいる。

「なんだぁ……うるせぇな」
「なんだいその言い草は!」
「いて!」
 
 女が俺の頭をはたいた。随分と口の悪い乱暴な女だ。泣き腫らした顔が折角の美人を台無しにしている。さっきお前さんと呼ばれていた気がするが、俺の聞き間違いか。

「あんた誰だい?」
「こんな時に何冗談言ってんだよ!!」
「冗談だぁ?」

 叩かれた頭を押さえながら起き上がろうとすると全身が痛んだ。もう一人のじいさんが俺の体を布団に押し戻して、あちこち具合を見ている。白髪の目立つじいさんは医者の格好をしている。どうやらここは診療所のようだ。あたりを見回していると、また拳が飛んできた。これ、頭は止しなさいとじいさんが小さく忠告するもののそれは俺の頭に振り下ろされた。

「いってぇ!」
「女房の顔を忘れたってのかい!!」
「女房?人違いじゃねぇのか?」

 女が信じられないものをみたように目を見開いたと思ったら、わぁ!と大声をあげて泣き出した。俺に女房?この美人が?何かの間違いじゃないのか。

「せんせぇ!」
「うむ、頭を打って記憶が混濁しているようだな」

 医者の話によれば、俺は梯子から落ちて数刻の間魂が抜けていたらしい。頭がずきずきするのは女に殴られたからだけではなかった。頭を触ると布が巻かれている。背中が特に痛いから、どうやら背中から落ちたのか。頭を下に落ちてたら命はなかっただろう。

「不幸中の幸いというやつですな。何はともあれ、目覚めてよかった」

 医者は記憶もそのうち戻るだろう、と言ったが、残念ながらその診療所で世話になっている間、俺はその女の記憶を思い出すことができなかった。

 

 

 

 

 

 女の名前はきよ、というそうだ。

「今日は退院のお祝いですからね、お前さんの好きなものばかり買ってきたよ!すぐ用意しますから、先生にもらったこいつでも食べて待っててくださいな」

 二人の家だという家にたどり着いて、そういって女が俺を机に座らせた。包みから取り出して皿に盛ったのは、鼠が丸まったぐらいの大きさの、白くて丸い物体だ。

「なんだいこりゃ」
「何って……饅頭ですよ」
「マンジュウ?」

 見ればわかるでしょう?よく食べてるじゃないですか。と言われてもわからない、というか知らない。どうやら俺の記憶はちぐはぐに抜け落ちているらしく、生活していてもわからないものがいくつかあった。困った顔をしている俺に気づいて、きよが丁寧に説明してくれた。

「ええ、小麦粉を練った生地で餡子を包んで蒸して作るお菓子ですよ」

 そのまま手に持って頬張るきよを真似て、俺も一口かじった。

「なるほど、こりゃうまい」
「お前さんは甘いものが好きですからねぇ」

 中に入っていたのは団子に乗っている餡子と同じものだった。生地はなんとも言えない食感だ。きよが煎れてくれた茶とよく合う。食べ進める俺に満足して、きよは土間の台所へと去っていった。食べ過ぎて夕飯が入らなくても困るので、饅頭は2つだけで我慢しておく。

「俺はこんな家に住んでいるのか……」

 手持ち無沙汰になって、辺りを見回した。どうやら俺には、ここ数年の記憶が特にないらしい。きよと所帯を持ってこの家に越してきたそうなのだが、一切がわからない。親父が大工で、俺もそれを継ぐため幼い頃から修業の身だったので、いま大工をしているというのは納得できるのだが。

「何言ってるんですか、お前さんがこの家を作ったんですよ」
「そうなのか!」

 そうか、そこまで俺も一人前になったのか。そいつぁもっともっと修業に励まねぇとな、と力んだところで、その奇妙な感覚に気づいた。俺が認識している月日から、何年もすっ飛ばして今の俺になっちまったということだ。まるで浦島太郎だ。そうこうしているうちに、魚の焼けるいい匂いがしてきた。

「はい、お待ち遠様」

 きよの並べる器のうち、またひとつわからないものがあった。

「この魚は、何て名前だ?」
「秋刀魚ですよ」
「さんま」
「お前さんが大のお気に入りの魚でね、脂が乗っていてとってもおいしいんですよ」

 心得たようにきよがそれは丁寧に説明してくれる。そのさんまの腹に箸を入れて、一口頬張った。小骨はあるが確かにうまい。

「すまねぇなおきよ、こんな面倒になっちまって」

 よく食う食べ物ひとつ、俺の好物だという魚、なのにどうして俺は覚えていないのか。好いて所帯をもった女だろうに、どうして俺に記憶がないのか。魂が一度抜けちまった時に、どこかに一部を置いてきちまったのか。きっともっと俺のわからない、知らないこともたくさん出てくるだろう。仕事だってきっと、”今”の俺では現場に戻っても支障が出るだろう。どうしたら失った思い出達を取り戻せるのか。

「何言ってるんですかお前さん。私が覚えてるからいいんですよ。ずっと一緒なんですから。思い出せなくったって、一緒にいれさえすれば、私がなんでも教えられますから。」

 得意げに胸を叩くきよに、なるほど、俺のが落っこちたとしても、きよのここにあるから問題ない、大丈夫と言ってくれてるのだ。本当によくできた女房をもらって、俺は本当に幸せもんだ。

 

 

 

 

 

(妖怪三題噺様より「秋刀魚」「魂」「饅頭」https://twitter.com/3dai_yokai