うたかた。

小説散文ときどき日記

御馳走マグロ

「咲季はしっかり者だから、大丈夫」

 最期の時、私は母とゆびきりをした。ゆびきりげんまん。そう呟く母の言葉に私は首を振る。置いていかないで。ひとりにしないで。泣いて縋りつく私を置いて、母は笑顔でこの世を去った。

 

 

 母と交わした約束を守るため、私は今日も戦う。気合を入れて髪を一つに括り、厚手の上着と厚手のズボンで防御する。マスクと軍手をつけて、準備万端。ちなみに私はこの格好を戦闘服と呼んでいる。

「……ミーちゃーん、ごはんだよぉ」

 恐る恐る、母の寝室のクローゼットを開ける。暗闇にふたつ、金色の目がぎらりと光ってこちらを見ている。それだけですくみあがってしまった。母の可愛がっていた白猫のミーちゃんは、母にしか懐かなかった。そばに寄るだけで強烈な猫パンチと鋭い引っ掻きをおみまいされてしまうので、私はこの部屋に来るたびにミーちゃんの爪痕だらけになる。

「痛い!痛い!ごめんなさい!!」

 案の定、今日も目が合っただけで襲い掛かられてしまった。カリカリを器にうつして、寝室の隅まで下がる。ミーちゃんはクローゼットから出てきたものの、ずっと私を睨みつけて動かない。こうして今日も攻防を繰り広げつつ、部屋や猫用トイレを掃除し、飲み水を交換し、毎朝毎晩ぐったりだ。

 一週間目にして、ようやくミーちゃんは私がいてもごはんを食べてくれるようになった。相変わらず近づくと攻撃されてしまうので、戦闘服はなくせない。部屋の隅で体操座りをして、カリカリポリポリとごはんを食べるミーちゃんを眺めた。

 きっとミーちゃんも、突然母がいなくなってしまって戸惑っているのだろう。時折何かを探し求めてあちこちうろついたり、呼ぶように大きな鳴き声を上げ続ける。その声がとても切なくて、振り切るように私は寝室を後にする。
 どこにいるの。出てきてよ。撫でて、抱っこして。遊んで。一緒に眠ってよ。あなたがいいの。あなたじゃなきゃダメなの。他の人はいやなの。……その声には、そんな叫びがにじみ出ている。

 でももうここには私しかいない。その現実をミーちゃんは受け止めてくれない。私だってさみしいよ。お母さんはお母さんだけだから、お母さんじゃないといやだよ。お母さんに話を聞いてほしい。ごはんを作ってほしい。ただそこにいて、笑いかけてほしい。

 ミーちゃんの叫びは、そのまま私の声だ。私たちは似た者同士なのだろう。この部屋に、母に置いてけぼりにされた同士だ。

 その夜、私は眠れなくて、何度も失敗した母の作ってくれたホットミルクの味を再現することに成功した。ほんの少しだけいれるはちみつのさじ加減がなかなか難しかった。そのマグカップを持って自分の部屋に行こうとして、ミーちゃんはどうしているかなと気になった。

「ミーちゃん?」

 そっと、母の寝室の扉を開けてみる。ミーちゃんはやっぱりクローゼットの奥にいるみたいで、見える所にはいなかった。
 ミーちゃんがこの部屋に篭っているのは、母の匂いがするからだ。母の服がしまわれているクローゼットはなおさらだろう。

 少しだけならいいかと、私は母のベッドへ向かう。ミーちゃんほど熱烈ではないけれど、私だって母が大好きだった。たまには母を思い出したい。
 ベッドの上で母の毛布に包まって、そっとホットミルクを啜った。ゆっくりゆっくり味わっていたら、飲み終わる頃にはとても眠たくなってしまって、気づけば私はころんとベッドに横になっていた。

 ふと気付いたのは、顔にかかる風だった。冷たいような、生あたたかいようなそれが気になって、正体が気になって目を開けた。

 私は最初、それをぬいぐるみだと思った。ミーちゃんがだいすきな母は、よくミーちゃんに似た猫グッズを買い集めていたから。寝る前までなかったのにどうしてここにあるのだろうと考えて、それのお腹が上下していることに気づく。

 ああ、ミーちゃんだ。本物だ。

 出しそうになった声を押し込める。ミーちゃんが私の顔の目の前で丸くなって眠っている。すやすやとやすらかなその呼吸が額に当たってくすぐったい。

 何か物音を立ててしまうと眠っている彼女を起こしてしまう気がして、私はただ静かに静かに、自身の呼吸音すら極力立てないようにミーちゃんを眺めた。ちいさなちいさなその寝息が、夜の空気にそっと溶けてゆく。

 いとしくて、せつなくて、そしてやっぱりすこしだけさみしいそれに落ち着くと同時に何処かが痛くて苦しくなって、気づけば私は呼吸も乱さず、嗚咽も漏らさずに静かに涙を流していた。頑なだったのは、私の方も同じだった。彼女の方から歩み寄って来てくれた。一緒にいようという相図に聞こえた。

 もしかしたら近いうちに、戦闘服はいらなくなるかもしれない。それはもうすでに確信に近かった。そうしたら、私とミーちゃんの大好物のまぐろの刺身を買って来て、分け合いっこよう。お祝いと、仲直りのしるしに。

 

 

 

 

 

 

 

nina_three_word.

2/19〈ぬいぐるみ〉〈ホットミルク〉

2/20〈戦闘服〉〈刺身〉〈指切り〉