うたかた。

小説散文ときどき日記

幸せな男の話

 人は死の直前に見せる表情が一番美しい。その姿を愛おしいとさえ感じるのは、私が狂っているからだろうか。

 この仕事を続けているのは、人である私にはこれしか生きる術がないからだ。私は人を壊すことでしか私を証明できない。私を形づくるものはこれしかない。だからこそ、死にゆく彼らへと向ける不思議なこの感情だけが、私の生きる楽しみでもある。


「君は俺にとっての死神か……いや、天使と呼んだ方がいいのかな」

 うん、君には天使の方が似合うね。男は振り返り、給仕についている私の顔をまじまじと見ると嬉しそうに微笑んだ。どこまでわかっていて男が突然その話をはじめたのかわからず、私はただ黙ってご機嫌な男の顔をちらりと見返した。私よりもこの男の方が、よっぽど天使のように美しい顔立ちをしている。

「どうせ永遠に話せなくなるんだ。最後の話相手になってくれないかな?」

 そう言いつつも、男は居住まいを直し、最後の晩餐に戻った。部屋の真ん中、広いテーブルに並んだ一人分だけ用意された料理たちを、綺麗に丁寧に、それはそれはおいしそうにゆっくりと片付けていく。
 二人きりの部屋、淡い間接照明といくつか置かれた大小様々な蝋燭が踊るように揺れている。その静かな空間を、男の朗らかな声と食器の奏でる音が響く。
 自分が殺されるとわかっていて、ここまで落ち着き払っているどころか楽しそうな標的は生まれてはじめてだ。

「まぁ立ち話もなんだし、座ってよ」

 男は正面の椅子を指差し、私に勧めてくる。思わずため息がこぼれたが、男は私のリアクションを喜んでいるようだった。皿が空なのを確認して次の料理を出す。前菜の2種類目は色鮮やかなサラダだった。

「俺がボスから盗んだものがなんなのか知りたくはないかい?」

 自分がそれがために始末されるというのに、男はフォークをご機嫌に振って、まるで悪戯が成功した子供のように笑っている。フォークに刺さったままのプチトマトから汁が滴り落ちて、それに気付いた男がようやくそれを口に運んだ。

「話に付き合ってくれたら教えてあげる」

 正直のところ私はボスのコレクションに興味はないのだけれど、男が私に殺されることになった理由には興味がある。この男の所属する組織のボス、その彼がそれはそれは大切にして誰にも見せずにいたコレクションを盗んだという理由だけで、男は私に殺されるのだ。
 上下関係の厳しい裏社会でも、こんなへんてこな依頼ははじめてだ。ボスの私物を盗む命知らずの馬鹿も、その馬鹿にわざわざ死をくれてやるボスもはじめてだった。

 男の浮き出た喉仏がその赤い液体を飲み干した事を見届けてから、数歩踏み出した。男の話を遮らないのは、この単調でつまらない生活に刺激がほしかったのかもしれない。皿を下げて次のスープとパンを並べる。グラスにワインを注ぐと、男はにっこりを笑みを深めた。

「ありがとう」

 まだ前菜だというのによく飲む奴だ。よく喋るからすぐに喉が乾くのかもしれない。それともこの男も実は緊張しているという事なのだろうか。

「これぐらいの大きさのね、絵だった。月に祈る女性が描かれてるんだ」

 男は一度フォークとナイフを置くと、両手を上下に広げてみせた。だいたい50センチぐらいだろうか。

「ボスが決して人に見せなかったあの絵はね、いわゆるいわく付きってやつなんだ。もとは無名の作家のなんだけどね」

 なるほど男が盗んだ私物というのは絵画なのか。だとすればやはり男の死は腑に落ちない。たった一枚の絵で男の人生が終わろうとしているのに、男は抵抗するそぶりも、それらを嘆いている節もない。

「作家が死の間際、己の血を使って完成させたんだよ。自殺か他殺か病死かは不明なんだけど。…まぁこれは単なる噂なんだけどね。あの絵のすごいところはそれだけじゃない」

 座ってくれないの?という甘えたような声を出す男を無視して、次のメインの魚料理を差し出した。舌平目のポワレ。いくら男の話に興味があっても、私は私の仕事をしなければ。

「絵を枕元の壁に飾って寝るとね、夢にその絵に描かれた女の子が出てくるんだよ。」

 咀嚼の合間に、男はそう切り出した。一体なんの作り話だろうと視線を上げれば、男はにこにこと嬉しそうにこちらを見ていた。

「俺もボスから話を聞いたときはまさかとは思ったんだけどね、ちゃんと会いに来てくれるんだよ、必ず毎晩。ボスの自慢話が本当か、試してみるだけのつもりだったんだけどね」

 つくづく変な奴だ。酔っているのかもしれない。皿の中身が半分に減ったのを見計らって次の料理を取りに一度部屋を出た。

「彼女と出会って、女に煩いボスが病的なまでに懸想するのも納得した。彼女は他のどの女よりも素晴らしい」

 どうやらまだ続くらしい。とりあえずそのまま喋らせつつもこの調子で料理は食べてもらうことにする。肉料理は牛フィレ肉のロッシーニ風。これが終わればあとはデザートだけだ。やっと終わる。

「たった一度好奇心に負けてボスの出かけている日にこっそり拝借したのに、ずっと彼女と一緒にいたくなってしまった。毎晩俺たちは語り合い、そして互いに愛し合ったんだ」

 切り分けたステーキを口に運んで、男はうっとりと微笑む。

「彼女はこの世のどの女よりも美しい。そういえば、目元が君と似ているかもしれないね」

 変な男という印象が、気味の悪い男というものに変わってきた。にわかには信じがたいありえない話だが、最期を迎える人間がこんな作り話をするだろうか。

「俺は彼女を愛している。彼女も俺を愛してくれている。例え何があろうとボスに返してなんてやるものか」

 笑う男は食事を続ける。なるほど、その話が本当ならば、ボスがこの男を殺したいのは絵を盗んだこと以上に、彼女の心を奪ったからだということなのだろうか。

 その後も男は次から次に、いかにその絵の女が魅力的かを語り続ける。ようやくデザートのフルーツとケーキを差し出し、食後のコーヒーを男が啜る頃には私はなんだか疲れきっていた。容姿からしぐさや言葉、ベッドの中の話までされたのだからうんざりしてくる。

「そういえば、俺は一体どうやって殺されるのかな?」

 その口調からはたいして大事な話をしているようには見えない。明日の天気はなんだったかな?くらいの軽さだ。

「……もう終わりました」
「ああ、なるほどね」

 やっぱり男は興味なさげに頷いただけだった。眠そうにてのひらで一度瞼をこするも、やはりにこにこと朗らかに笑う。もうやることは終わった。最期ぐらいは付き合ってやろうと、私は最初に男の示した椅子へと座った。見届けてやるのも、私の仕事のうちだ。

「……眠くて、ものすごくだるいくらいで痛みはないんだ。苦しませずに殺すなんて君はやっぱり天使だね」
「面白い話を聞かせてくれたお礼です」

 満足そうな姿に、このまま死んでいって絵をどうするのだろう、とふと思った。置いていってしまうのだろうか。それを訊ねようとして、ふとこの男の話が真実だと確信している自分の思考に驚いた。

「彼女はね、俺と行くんだ。残骸でよければここにあるから、君にあげる」

 君は声まで彼女に似ているね。ふらふらと頭を重そうに揺らしながら、それでも男は笑う。食事に少量ずつ含ませた毒は、男を緩やかに永遠の眠りへ誘う。
 
「これで……やっと、永遠に一緒だ」

 回りきらない舌で男はそう言葉を紡ぐと、とうとう机に突っ伏した。

「ありがと、天使さん」
「どういたしまして」
「楽し、かったよ」

 ずっと笑っていた男なのに、やっぱり最期、間際に浮かべた笑顔が一番美しいと思った。今までみたどの笑顔よりも幸せそうだ。静かに閉じられた瞼はもう動かない。私が彼らを愛しく思うのは、彼らが羨ましいからだ。

「おやすみなさい、よい夢を」

 男の足元、テーブルクロスをめくるとそこに男の言う通り一枚の絵があった。ただ静かな海辺に穏やかな月光が差し込んでいる風景画に見える。男の言った女の姿はない。

確かにこの絵は虚ろな抜け殻だ。ただ美しくて、さみしい。

 

 

(妖怪三題噺様より「天使」「暗殺」「絵」https://twitter.com/3dai_yokai