うたかた。

小説散文ときどき日記

「さようなら。」

 今日の一番は、恋人から届いた「俺たちの関係を考え直そう」というメッセージがはじまりだった。深夜に送られていたそれに、どういう意味かと問う返信をしたが既読がつかずにいる。胸の内に煙のようなものがもやもやと立ち上りはじめた。

 

 次に、この冬一番の寒さを記録したというのに電気ストーブが壊れて使えなくなった。最近効きが悪くなっていて、なかなか部屋をあたためてくれないとは思っていたが、今朝何の前触れもなく電源を入れてもつかなくなってしまった。込み上げてくるような寒さに震えながら制服に袖を通す。かじかんだ指がうまくいうことをきいてくれない。冷えた身体に冷たい服を羽織りながら、タイミングの悪さを恨んだ。

 

 霜で一面うっすらと白く染まった景色を歩く。建物の合間遠くの山並みもどこかぼやけていて、少しだけ濁ったフィルターを通して世界を眺めているようだった。全ての輪郭が定まらなくて、綺麗だなと他人事のように思った。

 

 音楽を聴こうとして、鞄に入れているはずのイヤフォンが見当たらないことに気付く。どこかで落としてしまったのだろう。恋人とお揃いで買ったものだったので、余計にこのタイミングでいなくなったそれが憎らしい。

 

 職場へ到着すると、後輩の起こした重大なミスで社員全員が対応に追われて走り回っていた。あっけにとられる間もなく私も同じように駆り出され、不機嫌極まりない上司の舌打ちと八つ当たりを、取引先からのたくさんの小言を、クライアントからの叱責をただ胸にしまいこむ。泣きじゃくる後輩を慰め、宥めながら昼休憩をとる間もなく急き立てるように働いた。空きっ腹にコーヒーだけを流し込んだせいで、吐き気のような胃の重さを感じる。……否、ストレスかもしれない。同僚の差し入れてくれたチョコレートがひどくしみた。

 

 仕事を終えた帰り道、ふと思い出して携帯を取り出した。待受に表示されたいくつかの通知の中に目当てのものが見つからず、それ以上なにかを開くこともなく再びしまい込んだ。お腹は空いている気がしてるのに食べたいものも思い当たらず、作る気にもなれず、客も商品もガラガラのコンビニで適当に弁当を買った。疲労で足が重い。それ以上に、胸の内に溜め込んだ何かが、暗くのしかかる。

 

 家に辿り着いたときに、壊れたストーブを思い出したがどうしようもない。私はコートのままで部屋中を捜し回るが、やはりというかイヤフォンは見つからなかった。代わりに見つけてしまったのは、お気に入りの椅子の布地に付いた黒い染みだった。
 こういう時はどうすればよかったんだっけ。濡らした雑巾を当ててこすってみるものの、染みが滲んで広がっただけだった。アンティーク調の暖炉を模したストーブも、好きなキャラクターを模ったイヤフォンも、この水色のリラックスチェアも気に入っていたのに。

 

 しかたない、と口の中でつぶやいて、まったくそう思っていない自分にやっと気付いた。


 私が何を思っていようと、どうしようもできないことはわかっている。わかっているのに、しかたないと言って割り切ることが実はできていない。そうやってあきらめることができていない。何もかもが悔しくて、憤ろしくて、なのにそれを誰にも、物にすら思うことができていない。


 そんな自分にどうしようもなく腹が立って、私はコートのポケットから携帯を取り出した。恋人当てに、たった5文字とひとつを打ち込んで送信する。

 

 今日の中で、はじめて少し自分を認めることができた気がした。

 

 

 

 

 

(妖怪三題噺様より「ストーブ」「椅子」「イヤフォン」https://twitter.com/3dai_yokai

どきどきルーシー連想ゲーム

 俺の彼女は変わっている、と思う。

「ルーシーかわいいよね」

 餡パン片手にテレビを見ながら、突然紗夜がぽつりとこぼした。ちなみに彼女はお笑いの番組を見ていた。誰だ、ルーシーって。テレビに映る人物にはそんな外人の名前をしているであろう顔は見当たらない。

「誰?」
「私がルーシーって言ったらルーシーよ」

 時折彼女の言動がわからないと思っていたが、今日ほど途方にくれたことはないかもしれない。とりあえず俺もテーブルの紙袋に手を伸ばした。俺のは餡パンじゃなくてメロンパンとカレーパンだ。どちらを先に食べようかと悩んでいると、やけに視線を感じた。紗夜がにやにやとしながら俺を見ていた。

 ああ、わざとか。仕方なく俺はどのルーシーなのか正解をさがす。

「あの体内に麻薬が埋め込まれたっていう映画?」
「どうかなぁ」

 一番最初に浮かんだのは、数年前主人公の女性の名がタイトルになったそれだ。たしかに役を演じた女優は美しい人だったが、妖艶な姿はかわいいとは少し違う気がする。あの監督の映画ならマチルダの方がかわいいだろう。

「じゃあ、児童小説?」
「うんあのルーシーもかわいいけどね」

 次に浮かんだのは子供向けのファンタジー小説。主人公のひとり、末っ子の女の子がその名前じゃなかったか。だがたしかに、紗夜はその映画を見ながら、女の子ではなく王がかわいい、もふりたいと騒いでいた気がする。俺もネコ科は好きだ。

「……もしかして猿じゃないよね?」
「何それ」
アウストラロピテクス
「…………」

 これも不正解か。ここまでくると意地でも答えたくなってくる。

「歌手もいたっけ…?」
「洋楽わかりません」
「うーん……漫画のヒロイン?」
「近いけど違う」

 困った。俺の知っているルーシーが完全に尽きてしまった。途方にくれてとりあえずカレーパンを齧った。思ったより辛い。紗夜が嬉しそうににやにやしている。

「降参?降参?」
「ヒント」
「私はさっき何を見ながら言ったでしょうーか」
「テレビ……?」
「ぶっぶー」

 俺はふと、それを視線の先に見つけて立ち上がった。テレビの前へと歩みを進める。……正確には、そのテレビの上の壁に貼られたカレンダーに向かった。

「これ?」

 紗夜がどこかでもらったと言って壁に飾ったそのカレンダーには、あまりにも有名な犬のキャラクターが描かれている。ビーグルがモデルだというが、ビーグルには白黒カラーの毛色はないらしい。

「この子?」
「ぴんぽんぴんぽーん」

 カレンダーを持って行ってその中のキャラクターを指さすと、紗夜が頭上で腕で丸を作った。
 水色のドレスを着たその女の子は、両手を腰に当て眉間にしわを寄せ主人公を睨みつけている。いつも怒っているか主人公に意地悪をしているイメージがある。

「かわいい……のか?」
「うん、かわいい」
「そうですか……」

 一口だけ残った餡パンを俺の口に押し込み、同じように残っていたカレーパンを手から奪い去られた。口が甘くなったに違いない。俺も辛かったからちょうどいいが。

「正解者にはコーヒーを入れて差し上げましょう」
「やったー」
「もっと嬉しそうに!」

「紗夜ちゃん最高!」

 満足そうに席を立ってキッチンに向かう彼女を見送りながら、結局何がしたかったのだろうと首をかしげた。

 

 ……否、きっと多分意味はない。

小林くん

「おはよう古賀君!」

「……おはよう、」

 キラキラと振りまかれる笑顔が直視できなくて、僕はそっと目をそらして挨拶した。けれど彼はもう他の生徒への挨拶回りで忙しく、僕の方を向いてなどいない。

 僕は、小林くんが苦手だ。クラスの人気者である彼はいつも輪の中心にいる。誰に対しても友好的かつ自由に振る舞い、頭がよくスポーツができて、どの先生相手でも怯まず、いつも好き勝手生きている彼が疎ましく、そして羨ましくもあった。だけど、あんなことになるとは思っていなかった。だからって、いなくなってほしいなんて思っていなかった。

 

 小林くんは死んだ。近所の裏山で倒れていたそうだ。警察は詳しいことを教えてくれないので。理由はわからない。けれど当日、彼の通学鞄は学校のゴミ箱から発見された。事件なのか、自殺なのか。学校中がその噂で持ちきりだった。

 小林くんの葬儀にはクラスメイト全員で出席した。お坊さんがお経を上げている間、小林くんのお母さんはずっとぼんやりと遺影を眺めていた。まだ、状況の把握ができていないという表情だった。小林くんの小さい弟と妹もいる。目元が小林くんにそっくりだった。お父さんはいないらしい。きっと人のいい小林くんがさぞかしよく面倒を見て可愛がっていたのだろう。二人とも泣きじゃくっている。

 形式上そこに棺が置いてあったが、どんな表情で眠っているかはわからない。まさか焼香の時に奥まで入り込んでいって覗きこむ訳にもいかない。静かに両手を合わせながら、どうして僕は彼が苦手だったのだろうと思っていた。誰もが彼を慕っていたのに。でもきっと、だからこそなのだ。クラス中どころか学年中の誰にでも好かれて、どの先生からも評判のいい人気者なんて、本当にいるのだろうか。本当に小林くんはそれほど素晴らしい人だったのだろうか。

 僕はきっと、何もかもが完璧すぎる彼が気味が悪かったのだ。本当に小林くんは、いい生徒であり、いい友人だったのか?

 

 

「実は俺、小林のこと苦手だったんだ」

 葬儀からの帰り道、同じ方向のメンバーの中でぽつりとこぼしたのは、比較仲のいいクラスメイトだった。

「……実は僕も」

「俺も」

「おい、やめろよ」

 学級委員が険しい顔で遮った。……そういえば、人気者なのに委員ではなかったなと思い出す。部活も、僕と同じ野球部だったがレギュラーではない。僕はなんだか不安になって、慌てて口を開いた。

「小林くんって、頭よかったよね…?」

「ああ」

「テストの順位はクラスで何番だったんだろう」

「…さぁな」

「お母さんしかいないこと、誰か知ってた?」

 クラスのメンバーが10人程集まっているのに、誰も口を開かなかった。つまり誰も知らないのだ。まさかと思いながら、もうひとつ質問を投げかけた。

「小林くんって誰と仲よかったっけ?」

「委員長だろ?」

「いいや、佐々木だろ?」

「俺もそこまでは…」

 再び、沈黙が下りた。重い空気が立ち込めてしまって、みんなの気まずさに拍車をかけた。僕たちは一体、毎日会っていて小林くんの何を見ていたのだろう。遺影を見たはずなのに、顔や声ですら曖昧になってしまった気がする。

「……小林くんって、どんな存在だったんだろう」

 今度こそ、誰もそれを答えてくれなかった。小林くんが死んだということよりも、その沈黙の方がずっとずっと恐ろしかった。

 

 

(妖怪三題噺様より「小林」「ゴミ箱」「裏山」https://twitter.com/3dai_yokai

十八歳、海の底。

 男は、私を片腕に抱いて眠っている。触れあっている剥き出しの肌はまだ、十分な熱を持っていて、しっとりと濡れていた。二人でくるまったタオルケットごしに、時折吹き込む冷房の風が心地いい。

 男の寝息に合わせて、ゆっくりと呼吸をする。目を閉じて、長いことそれを続けても眠れなくて、私は諦めてぼんやり、その男を眺めた。

 海で生きる男らしい、少し傷んだ褐色の肌。陽射しで色の抜けた髪。それと同じ色の、バサバサの睫毛。整った鼻筋、かさついた唇。まだ若さを残す、彼の華奢でしなやかな体には、均等な筋肉がついている。私の頭を支える腕が辛くないよう、起こしてしまわないよう、そっと寝返りを打って、そしてそのために眠れないのだとやっとそこで気付いた。

 

  男が唯一くれたやさしさですら、私はうまく受け取れていない。

 

 自嘲の笑みが、ひとつぽろりと零れおちた。

 そもそも島に辿り着いたのがもう夜遅かったので、外がもうほんのり明るくなりはじめていた。濃く青い光が部屋中を照らしているのが綺麗だった。静かで、安らかで、まるで海の底みたいで。海の底の、淀んだ場所。流れ着いたものが、最後に辿り着く死に場所。

 

  幸せで、幸せで、そして、死にたい。

 

 苦しくて、狂おしくて、今すぐその海で溺れることができないのなら、首でも吊って窒息したいと思った。今すぐ楽になりたい。これほどまでの苦痛と幸福が混ざり合ったものが、この世にあるのだと知った。

 熱はもう完全に冷え切っていた。肌寒さすら感じるけれど、触れている体だけはあたたかい。男もそうだったのか、寝ぼけて私を引き寄せた。

 

 またひとつ、私の弱さが溢れておちる。

 熟睡している男は、腕が濡れても気付かない。男の腕の産毛までもが金色に灼けているのを眺めながら、その男の手を取ってそっと指先に口付けた。それでも胸は震えることもなく、喉からは嗚咽もこぼれなかった。ただ静かないとしさが、残るだけ。こんなにも、こんなにも堪え難い幸せがあるのか。

 

 男は、私の体しか愛してはいない。もっと言うなれば、脚の間の、その器官だけ。心は、気持ちは、感情は必要とされていない。すきだとか、かわいいとか、甘い言葉に従い縋ったのは私の弱さだとわかっている。酷使された体の軋みは、心があげている悲鳴のようだ。疲労よりも痛みが強すぎて、もう限界なのはわかっていた。腕枕ややさしい言葉なんかで補われるものよりも、奪われていくものの方が、どうしようもなく大きかった。

 

  なのに私は、その腕から抜け出せずにいる。そのぬくもりから、離れられずにいる。

 

 自分の愚かさを呪い、浅ましさを恨んだ。

 みっつ目の自責が、こぼれ落ちていく。

 これで終わりにしよう、と決めたのに最後だからもう少しだけ、と囁く馬鹿な自分がいる。もう空の闇は薄まって、青白くなろうとしていた。

 海の底は、もう消える。

 

 男の手を離し、親指の付け根に口付ける。

 頭を上げて、枕にしていた肩と二の腕に口付ける。

 いちばん最後に触れたくちびるは、お互いに乾ききっていた。音も、温度も、ない。

 

 もう、こぼれるものはなかった。 それが私の最後の儀式だった。

 

 私が服を身に付けている間に、男が私に背を向けるように寝返りを打った。それが全ての答えだった。ひとりで部屋を出て、白く明るい場所へと抜け出した。

 

 道に迷いながら歩いていたのに、それでもすっきりとした気分だった。そっと波の音に誘われるように、深夜の記憶を頼りに坂を下る。

 来る時は、ぽっかりと深い底なしの闇だった海も、白い光に照らされて、きっと帰りはとても綺麗だろう。

 

禁断の果実

「ようこそおいでくださいましたお嬢様」

 

 ああこれは夢か、とすぐに気付いた。真っ黒闇にスポットライトを当てた空間に、男が一人、立っていた。タキシード姿の男は顔に白塗りの、ピエロの化粧を施している。その男が被った帽子を手にとって、恭しく礼をした。

 

「はぁ……どうも」

 

 ぱちくりと瞬きをしてから、夢なのにどうして瞬きができるのだろうと不思議に思う。夢だからなんでもできるのだろうか。しているつもりなだけなのかもしれない。自分の体を見下ろすと、白いテーブルクロスの敷かれた大きなテーブルを前に、黒いドレスを着て座っていた。私にも同じようにスポットライトが当てられていて、白く眩しかった。見上げても暗闇で天井は分からず、光源が視界を焼いただけに終わった。リアルな夢だなぁと自分の想像力に感心する。

 

「貴女様は選ばれた客人です。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」

 

 そう言い放ち掲げられたピエロの帽子は、くるりと一回転するといつの間にかシルクハットへと変化していた。そこからバサバサと白い鳩が飛び出していく。マジックショーなのだろうか。シルクハットから出てきたステッキから、更に花が飛び出す。テーブルを周ってこちらに歩み寄ってきた男が、恭しく私の髪と胸にそれを挿してくれた。真っ赤な薔薇。ほんのり青い芳しさまでリアルに再現されている。

 

「……すごい」

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 

 男はまた元の位置に戻るとステッキを暗闇へと放り捨ててしまう。男が見せるように差し出した手へシルクハットを傾けると、赤いボールがいくつか転がり出てきた。男はシルクハットを被り直すと、そのボールでジャグリングを始めた。やはりピエロでもあるのだろうか。

 

「本日のお食事はこちらでございます」

「え?」

 

 また一歩ずつ歩み寄ってくる男の投げているボールが、ひとつ頭上へ投げられる度に微妙に色と形が変化していった。あっという間にボールは全て林檎へと変わってしまった。私は思わず小さく拍手をすると、男はまた嬉しそうに礼を述べる。全ての林檎を頭上高く放り投げると、再び手に持ったシルクハットへと林檎が収まっていった。

 

「林檎といえばアップルパイ…いえ、タルトタタンはいかがでしょうか」

「嬉しい、大好きなんです」

「それはようございました」

 

 男の腕がテーブルを払うように動くと、白いお皿とフォークとナイフが音もなく現れた。なんて楽しく面白い夢なのだろう。男がお皿にシルクハットを覆うように被せ、再び開くとそこには男の言葉通り、濃い赤色をしたタルトタタンが現れた。瞬く間に私の鼻腔が、焼きたての甘い香りで満たされる。いつの間にか男が手にしたアイススプーンが差し出されると、バニラアイスがその上に乗せられた。もう片方の手が更にちょんと鮮やかなミントを乗せてくれる。

 

「どうぞ、お召し上がりください」

 

 焼きたてのタルトタタンに乗せられたアイスが、もう蕩けているのがたまらない。ナイフとフォークを手に取ると、男が親切に後ろから膝にナプキンを広げてくれた。

 

「いただきます」

 

 最初の一口を切り分けるときの高揚感。アイスの溶けた部分をナイフで掬いその上へ塗るように乗せると、こぼさないようにそっと口へ運んだ。含んだだけて、口の中いっぱいに広がる甘さ。そしてほんのり酸っぱくほろ苦い。ワインとラム酒の香り。咀嚼もままならない程に味わい、私はゆっくりと時間をかけてそれを飲み込んだ。

 

「……おいしい、おいしいです!」

「ありがとうございます」

「こんなのはじめて……」

 

 今までに食べたことのないほどの美味しさだった。あたたかいものとつめたいものの組み合わせは最高だと思う。あたたかいタルトやパイにアイスを乗せるのは本当に幸せだ。逆にアイスに熱いコーヒーや紅茶をかけて食べるアフォガートも大好きだ。

 

「では次はアフォガートにいたしましょうか」

 

 ピエロのにやりとした笑みが嬉しそうに首をかしげた。今私は口に出していただろうか。まぁ夢なのだからなんでもありなのかもしれない。ナイフを差し込むとじんわりとしたたる赤い汁に、私はうっとりと二口目を口に運んだ。今までに口にしたことのないような魅惑的な、甘美な、禁断の味。……もしかして、血の味に似ているのかもしれない。

 

 その夢を、毎夜見るようになることも、起きている間ずっと狂うような、内臓を虫が食むような空腹に襲われることも、私はまだそのときは知らず、ただただ、幸せだった。

 

 

(妖怪三題噺様より「林檎」「ボール」「帽子」https://twitter.com/3dai_yokai

合わないレンズ

「私、結婚するんです」

 

 最近度の合わなくなった上に、レンズが汚れ曇ってきた眼鏡がずり落ちた。頭の中がからっぽになってしまい、放たれた言葉がその空洞に虚しく響く。目の前の彼女を恋人だと思っていたのは、僕だけだったのだろうか。だとしたらなんて滑稽なんだ。

 

「なので、私と別れてください。ごめんなさい!」

 

 ああ、付き合っていたという認識は間違いないということでいいのだろうか。そのまま泣きじゃくる彼女に、からっぽの頭はさらにしゅるしゅると縮んでいくように思えた。喫茶店の真ん中の席、多くの人目がある中で、僕たちは酷く目立ってしまっていた。その人らの視線は泣いている彼女より、僕の方へと集中している。隣の女子高生らしき二人に至っては「泣かせた」「泣かせた」と囁きあって笑う始末。他の人たちも「女をこんな所で泣かせるなんて」と目が言っている。でもそんなこと言われましても。勝手に泣き出したのは彼女だと思ってしまう僕が狭量なのか。

 

「わかりましたから、落ち着いてください」

「ありがとうございます!ありがとうございます……!!」

 

 今度は立ち上がってぺこぺこ頭をさげる彼女に今度こそ僕は途方に暮れてしまう。わかれましたと言った直後にこの反応とは。一体僕という存在は彼女にとってなんだったのか。

 とりあえず、ズレた眼鏡を直して視界を戻す。曇っているのも、度があっていないのもしかたない。そうだ、仕方がない。自分で自分をそう宥めた。違う、今宥めるべきなのは彼女の方だった。

 

 なんとか泣き止んだ彼女がそのままぺこぺこしながら去っていくのを見送って、僕はようやくぐったりと息を吐いた。ふと隣の席に置いた鞄が目に入る。その鞄からリボンがはみ出していた。

 作ってほしいとねだられ、彼女の誕生日に贈るため、連日夜更かしをしてようやく完成した切り絵。僕の趣味であるそれは、彼女のためにかつてない精密さと繊細さで作り上げた自信作だった。それを包装し、かけたリボンだった。渡し損ねてしまったが、きっと最初から必要なかっただろう。そのなにもかもが滑稽に見え、僕は帰路、その切り絵を駅のゴミ箱へと置き去りにして帰った。

 最高傑作を手放すという潔さは、その時の僕にとってとても清々しく、あらゆる何かを癒してくれた。先ずは眼鏡を作り直しに行こう。そうしてまた、新しい切り絵を、あの作品を超えるそれを作ってみよう。

 

 

 

 

 

(妖怪三題噺様より「眼鏡」「リボン」「切り絵」https://twitter.com/3dai_yokai

カンシュ

 ふと気づくと、私は見知らぬ場所にぽつんと立っていた。目の前に立つ鳥居は不気味なほど真っ白い色をしている。敷石も白い。空も白い。これは夢だろうか。

 

……私は、一体何をしていたんだっけ。

 

 泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。

 

……でも、どうして、泣いていたんだっけ?

 

 思い出せないのに、ただただどうしようもなく悲しいのはどうしてなのだろう。ぼんやりと霞みがかった思考で、けれどはらはらと涙が勝手にこぼれ落ちてくる。

 

……かなしい。くるしい。さみしい。つらい。

 

 あとからあとから、溢れては雫となって伝っていく。楽になりたい。でも方法がわからない。泣き止みたくても、私はどうして泣いているのかわからないのだから。

 

「こちらへどうぞ」

 

 声に驚いて顔を上げれば、いつの間にか鳥居の向こう側に巫女の格好をした女の人が立っていた。瞬きをすると、またひとつふたつと落ちていった。

 

 抑揚のない声と同じように、その美しい顔にはなんの感情も見えない。彼女は鳥居の奥を示し、そのまま踵を返して行ってしまう。何かを考えることもできず、私はつられるようにしてその真っ白い鳥居をくぐった。視界はずっと涙でぼやけていたから、前を歩く黒髪が目印だった。 


「どうぞ」

 

 巫女さんの進む方向には、やはり神社のような建物があった。どこもかしこも白く見えるけれど、よくわからなかった。見えないのか、見て考えることができないのか。それはきっとどちらでも同じだろう。


 通された一室で正面に座る巫女さんが、私に向けて、そっとその両手に持った何かを差し出した。赤い椀に、白いどろどろとした液体が入っている。私はそれを甘酒だと思った。思い出があるから。でもなんの思い出だろう。なんでそう思ったのだろう。

 

「これを飲めば、涙の原因をこのまま永遠に忘れられます」

「……私には、必要ありません」

 

 胸がつぶれそうで、やぶけそうで、いたくて、いたくて、いっそのこと死んでしまいたくて。なかったことにしたくて。どれだけ泣いても、気分は晴れなくて。それでも、きっと必要だったことだから私は今この地獄を味わっている。そんな、気がする。

 

「即答したのは、あなたがはじめてです」

 

 視線を上げると、その巫女さんがやわらかく目元を和ませて微笑んでいたのが、見えた。表情があるだけで、この世のものとは思えないほどの美人だ。彼女はおもむろにその器をとると、自ら酒を飲み干した。

 

「目が覚めたら、すぐに駆けつけてあげてください。ここにいた間だけ、時間が戻ります。……ただ、困りました。」

 

 相変わらず感情のない声が、淡々と告げた。洗い流したように、もう彼女の顔には何も感情が映っていなかった。

 

「うっかりあなたがいつ、ここに来たのかを忘れてしまいました。申し訳ありません。こちらとあちらの時間は流れる速さも違いますので、多めに戻しておきます」

 

 

 


 がばりと跳ね起きた私は、そこが病室であることを確認して慌てて時計を見た。0時を指していた時計が、ゆっくりと逆流するのを、みた。

 

「健司!!」

 

 ベッドに駆け寄る。まだ、息がある。思い出したようにまた次から次に滝のように涙がこぼれ落ちた。


 恋人の健司は長い病を患っていた。最期は私の顔を見ながら逝きたいと言っていた。もう残された時間が少ないのはわかっていた。

なのに私は、その死の間際に、立ち会えなかった。彼の望みを聞いてやれなかった。…居眠りをしていたせいで。日付が変わる直前、心停止のアラームで飛び起きて、健司はそのまま帰らぬ人となる。……はずだった。

 

時計を見上げた。今は23時48分。信じられなくて、すぐに健司を振り返る。まだ心臓は止まっていない。健司のご両親は今は休んでもらっていて、今ここには私しかいない。呼んでいる暇はない。もう彼は逝ってしまう。

 

「健司、健司愛してる。結婚しよう」

 

 伝えられればいい。それだけの時間があればいい。全部背負うと決めた。それが彼との約束だった。

 

「隠してあった指輪、勝手に付けるからね。止めても無駄だからね。」

 

 あとからあとから流れ落ちる涙を、もう止めるつもりはなかった。苦しくていい。悲しくていい。私が健司の分までかなしんで、くるしんで、さみしがって、泣いて泣いて、生きて、だからこの涙は、ずっと流れたままでいい。

 

「先に行って待ってて。きっと会える時には100歳のしわくちゃのおばあちゃんになってるけど笑わないでね。あっちで式を挙げよう。……甘酒でね」

 

 昔、お酒を一滴ですら飲めない彼が笑ったのだ。私と式が挙げられないと。だから私は酒という名がついていればいい、いっそ甘酒で挙げようと答えて、二人で笑って約束した。

 

「おやすみ健司。」

 

彼の最期を看取るという彼との約束を、そうして私はやり遂げた。さんざん泣き腫らしている私とは裏腹に、健司は幸せそうな笑みを浮かべていた。

 

 

 

(妖怪三題噺様より「甘酒」「時計」「美人」https://twitter.com/3dai_yokai